昭和48年08月10日 朝の御理解
御理解 第24節
「人に誘われて、しようことなしの信心は、つけ焼刃の信心じゃ。つけ焼刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ち込んでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを云うが、一人でもちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」
しよう事なしの信心ではいかぬ、どうぞその身から打ち込んで、しかも真の信心をせよと、教えておられます。真の信心に打ち込まなければいかんですね、人に誘われてのしよう事なし、まあ初めの間は人に誘われて、参れ参れと云われるから、参ったと言う事から縁を頂く人もあります、けれどもそれが何時までたっても、それではならないしよう事なしのもんじゃない、その身から打ち込んだもの、そこでここん所人に誘われてと言う所、おかげに誘われての信心も、これはしよう事なしの信心ですね。
おかげを頂きたいという、そのおかげに誘われての信心であったら、それはおかげを頂けば有り難し、頂かなかったら有り難くない、これだけお参りしたばってん、おかげは頂ききらじゃったというて、つけ焼刃的な事になってしまう。つけ焼刃の信心は取れ易い、どうぞその身から打ち込んでの、真の信心をせよと仰せられる、皆さんどうでしょうか、人に誘われてではない、それはおかげを頂かんならんから。
一生懸命自分から打ち込んでお参りしよるごたるけれども、それは只打ち込んだにはならない、おかげに誘われて参って来ておる。ですから所謂真の信心と判らせて頂く事が、有り難いのである、愈々その有り難いというのが、強うなり深う広うなっていく事が、ただ、有り難い楽しいのであるそういう信心が、その身から打ち込んだと言う事になるのですから、沢山お参りしとるけれども、やっぱりここんところを検討して見ると、あぁ私のは、まだつけ焼刃の様な信心だったなあと云う事が判ります。
そこでその身から本気で打ち込んで、所謂真の信心を判らせて頂くと言う事を、楽しみにです、それを有り難いと思うて、信心させて貰わなければ、有り難いと言う事が、育って参りません、信心のギリギリのものは、私は信心による真に有り難いという心が、育って行く事だと思います。今朝のご祈念に、これは私の場合どこをどう眺めても、おかげと思わなければ居られないほどしのおかげの中に、露出しとるだけでもそう感じなければ居られないのです。
その根というものは、もっともっと大きいに違いありません、どこを見てもどこにおっても、神様のおかげの働きの素晴らしい事に、只只恐れ入ってしまう、本当に只只恐れ入ってしまう。最近倉庫の二階が、沢山な色々なものを頂いとりますのが、置場に困るそれで、ただそれをしまうだけの倉庫の様な棚でも作って貰うというのが、秋永先生や高橋さん達の、いろいろ設計して下さって、一寸した小美術館の様な事になってきた、これはここに好きな人だったら1日でも座っとったり、楽しい事だろう。
骨董品の様なものから、美術品の様なものを眺めておるだけで楽しい、それが今日建具が全部入ってしまうらしい、本当に見事にこげな風になろうとは思わなかった。神様から次々と頂いての事だろうけども、それこそあれが出来ます時に、夢楽庵というたとこを頂いて、例えばこういうどんな素晴らしいものがあっても、それは夢の様なものであって、はかないものなんだ、水が入れば流される、火が出れば焼ける様なものばっかりなんだ、落せば割れるものばっかりなんだ。
実を云うたらはかないものなんだけど、それを見て楽しまれると言う事は素晴らしい事。所謂夢のような楽だけれども、その事を今朝から、昨日建具が入ると云ってましたから、その事を一寸心にかかりましたから、本当に勿体無い事だなと思わして頂いとりましたら、昨日初めてちらっとだけなのですけれども、水前寺清子の様ですね、昨日も今日も有難うという歌があるでしょう、番組があるでしょう、そんな昨日も今日も有難う、その場面を一寸みせて貰うとったのを頂くのです。
私が愈々本当に勿体無い事だなと思った事はね、有り難いというものが、例えばここではおかげを有り難いと思うのではなくて、信心が有り難いのだ、神愛が判ったらそこから今まで難儀と思うて居った事が有り難いのである、総てが有り難いのである、そういう有り難いと言うところを判らして頂いて、そして頂くおかげというものは、又一段と有り難いというのである。
ですからこの形の上のおかげも、もういやが上にも頂いていかねばならん、それがどこを見ても、どこにあっても、勿体無い事だなあ、本当におかげを頂いて有り難い、神様の一分一厘間違いのない、働きの中にこう言うものが、例えば沢山集まる、とこういうおかげを頂いてと、思うのが愈々有り難いのがつのるのである、有り難いのがつのって来るから、又おかげがつのって来るのです。
ただつけ焼刃的な信心でです、お参りをしておかげを頂いた、そういうおかげは、無い命を助けて頂いとっても、それは段々有り難さというものは、さめていく、今日の御理解で申しますと、つけ焼刃的信心で頂いたおかげというのはです、もうそのおかげに安住してしまう、おかげに腰掛けてしまう、そして、あの時はそうには参ったばってんもうご恩な忘れとりまっせん、月何回かお参り、お礼させて貰いよると言う事になって来る、そういうおかげはもう決してお徳にはならんのです。
ただ頂いとるおかげの恩を忘れんために、お参りしよるくらいの事じゃ、又おかげを頂かんならんけん参りよると云った、つけ焼刃的信心からお徳は受けられません、おかげに誘われてしようことなしの信心だからなんです。その身から打ち込んで、信心が判からして貰う、信心が判ったら難儀と思うて居った事が、有り難いと判り信心が判ったら、愈々その信心の有り難さというものは、いやが上に有難うなって来る、それはいわば露出したおかげと云うか現われた、現われて来るおかげというものがです。
私がどこをどう眺めても、どの部屋に行かせて貰うても、神様のおかげが充満しておる。それは本当云うたら、皆さんのお家でも同じ事なんだ、けれどもそれが露出してない使っておるから、なかなか有り難いと気がつかんから、不平不足が出る所が私の場合には、もう上のほうに盛り上がっておる様に、おかげが現われておるだから見るにつけ、触るにつけて有り難いなあと云う事になる、もう本当にそうです有り難い有り難い。先日からある方が、私も随分と枕を次々とお供え頂きましたけれども。
今度頂いたのは、支那の何というですかね、見事なテーブル掛けを崩して大きな枕をお供え頂きました。もう本当にまあ私が金に飽かして枕を作りたいと思うなら、こういう枕を作りたいと云う様な枕です、自分で作るというなら、もう本当にどんなに考えても、それこそ見るたんびんに触るたんびんにです、まあ何という神様のお働きを受ける事であろうか、何という有り難いおかげを受ける事であろうかと思うて、その枕が有り難いと思いよると、周囲にある総てのものが有り難とうなって来る。
有り難さは愈々つのって来る、だから又真に有り難いという心がつのって来るのですから、又いやが上におかげはつのって来るのです、だからそういうおかげでなから、いかん。つけ焼刃から生まれた、おかげの有り難いというのは、それはその人一生はそれでおかげ頂くか知れませんけれども、お徳にならん、その身から打ち込んでの信心をせよとは仰有ってはない、その身から打ち込んでの真の信心をせよと仰せられとる。だからその、真の信心を目指さして頂くものが、勢を揃えるから力になるのです。
枯木も山の賑わいの様な、信心者がいくらおってもたいした事はないです、例えばそれは信心をしよっても、云うならつけ焼刃的な信心者が、いくらおっても大した事は出来ません。家庭においても、教会においても同じ事が云える、その身から打ち込むと言う事は実に有り難い、だから打ち込もうと思うたら、神様がもうすぐにおかげを下さる。昨夜の御理解ですけれども、お参りしようと思うとる心どうでも、こうでもという心それには心という字に閂を入れると入れてご覧なさい。
必ずと云う字になるでしょう、これは玉水の湯川先生が、そう教えられたそうです。お参りしようと思いよります、やっぱり心にそう感ずる、ですからただ思うとるだけですから、何かが都合があるとそれが言い訳になって、実はこういう訳でございましたけんで、と云うくらいな信心これでは一心ではないと仰有ったそうです。如何に一心で参っておる様であっても、一心とはその心に閂を入れた、それが一心じゃと教えられた、どんな事があっても必ずと、私共お日参りをする、朝と晩と必ずお参りをする。
或る時なんか椛目の上の矢作という所が本村です、友人が亡くなりまして、お通夜に行って夜中になって遅くなりました、ですから、夜のご祈念にお参りしてない訳です、もう夜中になりましたが、それで、矢作から下りて来て、もう家の前は素通をりして、善導寺にお参りをした。これはもう、私が一心を立てておるからです、もう一心を立てていなかったら、もうすぐ帰ったら、朝のご祈念に出らんならんとです、もう夜中の2時か3時もありましたでしょう。
ですからもう家の前は素通りして、善導寺の教会にお参りさして頂いて、帰ってからすぐ戸を開けて、すぐ又朝参りせんならん、これは絶対朝晩はお参りすると、心に閂が入れてあるからです、それが出来るのですそれが出来る事が有り難い。昨夜こんな訳でございましたから、お通夜に行っとりましたから、こうと云う様な言い訳がこれから先も出てこない。一心一心というけれども、一心とは心に閂を入れる事なんだ、お参りが出来れば、お参りする、そういう信心で。
例えば真の信心がわかるはずがありません、おかげを頂く信心だったらそれで良いです、けれども、お徳を受けなければ、金光大神はお徳を受けていくための信心、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと云うのは、信心してお徳を受けてくれよと云う事なんです、だから、その身から打ち込まなければ出来ることではない。昨夜のご祈念に安東さんのお母さんが参って見えた、もう長年信心さして頂きよりますけれども、夜のご祈念を家でした事がなかった。
昨日から主人と話し合って、主人が先唱さしてもらうて、長瀬さんのようなああ言う腹の底から大祓いをあげなさる、あげな風に一丁真似をして見る、本気で朝のご祈念は夫婦でそろうてお参りをする、夜のご祈念は家で、それこそ夕めしをしまう、お風呂にでも入らせて頂いて、もう清々しい気持ちになって夫婦が御神前に座って、それこそ深々としたご祈念が出来る、もう思うただけでも有り難いです、そういう有り難いことに今まで気がつかなかった。
今夜から、早速その事を始めさせて頂こうと云うて話し合っておりましたら、昔買っておった大祓いの本がどこに行っとるか判らんのが、ほっこり出て来た、未だ本当に大祓いを覚えてないという訳です。だからお父さんが大祓いの本を見ながら一生懸命あげる、それを家内が後ろからついてご祈念をする、本気でその気になると言う事になったら、もう神様が打てば響く様におかげを下さるのです。
その身から打ち込んで信心させて頂こうという、いわば心に閂をちゃっと通して、そしてその事が楽しいのであり、有り難いのでありと言う所まで、おかげを頂かして貰うて、目には見えないけれども頂いとるおかげ、いや目に見えない所か現在この難儀を踏まえての信心、けどこの難儀を通して信心が判らせて頂く時に、それは神愛である事が判り、おかげである事が判る。そういうおかげを辿らせて頂きそこを通り抜かせて頂いて、今度は形の上に露出する様に、それこそ頂き過ぎる様に形の上に表れてくる。
何を見てもどこへ云っても、あれもおかげこれも、おかげというおかげの中に住まわせて貰うから、勿体無い事じゃなあと云う、有り難いに勿体ないが伴って、それこそ、昨日も、今日も有り難うである。有り難いと有り難いが重なって行くから、おかげもまた重なって行くのだと、そういうおかげを表して頂きたい、そういう信心をもって、しかもそれが、家族勢を揃えるとか、教会勢を揃える事になってくる時にです。
1人2人ではどうにも出来ないほどしの事が、大勢掛け声を揃えて持ち上げれば、持ち上がる道理がそこにある訳です。つけ焼刃の様な信心が、例えば烏合の衆がどれだけ集まったって同じ事です、真の信心を目指して貰う人達が、勢を揃えた時に始めて、もうそれこそ只只、なる程神様じゃなと、信心の無い者でも恐れ入ってしまうほどしのおかげを表す事が出来る。どうぞ皆さん、その有り難い、有り難いと云えれるために現在の中にある問題とか、難儀とか云うものの中にです。
本当の有り難さを判らして貰うのが、真の信心、その真の信心を愈々貫かせて頂いて、心に閂を通さして貰うて、所謂信心辛抱の徳を受ける、信心の徳を受けてです、もうそれこそ、勿体ないほどしのおかげを受ける、そのおかげの中に浸らせて頂くから信心は愈々、昨日も今日も有難うという事になってくる。これが只つけ焼刃的信心から湧いているおかげというものはですね、もう必ずおかげに安住するのです、そしてそれが段々おかげという事と実感しなくなってくるのです。
いいえおかげと言う事は、忘れちゃおらんという程度の事になってくるです。信心というものは、だから愈々有り難いというものがつのった上につのって行く事が、信心の云うなら眼目です、その有り難くなからなければならんのに、中途半端な所に信心が止まっておる。だからおかげを頂いとっても、おかげをおかげと感じきらない、それはつけ焼刃的信心から頂いたおかげだからです。
所謂人にさそわれ誘われてのしよう事なしの信心と言う事は、おかげに誘われてのしよう事なしの信心だから、頂いたおかげは、その時は有り難いけれども、段々有り難さが薄らいでくると云う様な、有り難さではいけないでしょう。そこで真の信心所謂どうぞその身から打ち込んでの真の信心を目指さなければならない、真の信心に云うならば誘われての信心でなからなければならん、そういう信心が、例えば1人よりも5人という風になって来ます時に、それこそどうにも出来なかった事が。
大きな石でも掛け声を揃えて持ち上げれば、持ち上がるほどしの信心、力の無いものが100人寄った所でそれは同じ事です烏合の衆です。所謂真の信心を目指さして貰うもののが、力を合わせる所から出来ない筈の所が出来るほどしの、おかげを頂く事が出来る、そのおかげを見、聞くにつけてもです、有り難いというものは愈々つのってくる、信心というものは、愈々有り難いものになってくる。私は今日色々頂きます内で、私は今日はある人の事をお願いさせて貰いよったらね。
もう大変なおかげを頂いてある、もう本当にたまがるほどしのおかげを頂いとる、けどその片一方にはどうしてじゃろうかと云う様な問題も起きてくる、その事をお願いさして貰いよったら、あの唐獅子が大きな玉に寄りかかってる置物があるでしょう、それを頂いた。もう神様の限り無く信心をお育てござる、丁度あの猫が玉取る様にです、云うならば信心を育てて下さる事の為に、云うならば修行させよんなさる、たたかいよんなさる様な感じです、だからそこを本当に信心と頂き切った時に。
問題が問題で全然なくなって来る、ただ有り難いものだけになって来る。そして頂いた事がですね、奥村チヨという歌手が居るでしょう、奥村という事は、所謂、信心の奥所という事だと思うです、チヨという事は、もう千代、八千代という様にです、もうあの世までも、持って行けるほどしの、お徳を受けておる人の姿だとこう思うです。またその次の人の事をお願いさせて頂きよりましたら、おかげは大変頂いとります。
所謂今日のおかげに誘われての信心で、おかげを頂いとるのですから。おかげを頂いたら、ちゃんと腰掛けてしもうとる。そしてこれは言葉に出せない様な、表現で頂いたんですけれども、これはただ、もうその場かぎりのおかげであって、これは所謂奥村チヨと云った様な、云うならお徳にならない信心だという風に頂いた。私は本当にそういう人達にですね、本当にここん所を判って貰いたい。
例えば今日あたりの御理解を真から頂いて貰うてです。折角そういう素晴らしい人間的にも、素晴らしい内容も持っておるし、信心のセンスも持っておるし、それがただその場かぎりのおかげに止まって、有り難いというものが育って行かない信心だったら、どう言う事になるだろうかと思う、惜しいでしょう。ですからどうぞ一つ、人に誘われてのしよう事なしの信心という事を。
私はおかげに誘われての信心という信心は、もうすでにしよう事なしの信心だ、それでは、いくら、何十年の信心が続いた所で、それはつけ焼刃的なものでありますから、その身から打ち込んでの真の信心と仰有る、その身から打ち込んでの真の信心に誘われるというかそこに、憧念を燃やしての信心にならなければならないと言う事です。心に閂を入れて、一心を貫いて頂きたいと思うのです。
どうぞ。